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05/05/03(火)■ぼやきくっくり特別編〜新選組ゆかりの地を訪ねて〜
05年5月12日加筆修正済

 夫と二人で京都に行って来ました。
 京都へは何度か行ってるんですが、新選組の史跡を見て回るという試みは初めてのことです(にわか新選組ファンσ(^^))
 興味のある方はぜひ見ていって下さい。

 まずは阪急大宮駅から新選組発祥の地である壬生周辺を散策(写真1〜13)。
 (写真は史実を時系列で追った順に並べてありますが、実際には大宮駅に一番近い光縁寺から散策しました。
  光縁寺→旧前川邸→八木邸→新徳禅寺→壬生寺の順です)
 その後、徒歩20分ほどかけて東南方向にある西本願寺へ(写真14〜15)。
 西本願寺からさらに東南方向へ5分ほど歩いて「油小路の変」の現場へ(写真16)。
 そこから最寄り駅のJR京都駅へ出て、地下鉄で御所のある丸太町駅へ(写真17)。
 御所を右回りにぐるっと散策し三条大橋へ。三条通から池田屋跡を見て、最後は河原町通を通って近江屋跡へ(写真18〜20)。
 昼食や休憩を挟んで、所要時間は約5〜6時間でした。

 もちろん今日回った以外にも新選組ゆかりの地はたくさんあります。機会があればまたチャレンジしたいと思います。

 ※写真をクリックすると大きな写真を見ることができます。戻る時はブラウザの「戻る」を押して下さい。

(1)新徳禅寺(しんとくぜんじ)
文久3年(1863年)、幕府のよびかけで京都の治安維持のための浪士隊が江戸で募集されました。集まったのは約250名。その中に剣術道場・試衛館の近藤勇らもいました。
江戸を出立して16日後の2月23日、三条大橋を渡り京都の町に入った浪士隊が一番最初に入ったのがこの新徳禅寺。大宮駅から徒歩10分ほどの所にあります。残念ながら中には入れません。門の外からの拝観となります。
(2)新徳禅寺の本堂
ここで浪士隊リーダーの清河八郎が演説をしましたが、その内容は驚くべきものでした。「我々の真の目的は将軍警護ではない。直ちに江戸に引き返す」。最初の目的とは正反対の倒幕論。大半の浪士は江戸に戻りましたが、近藤ら試衛館一派と水戸浪士の芹沢鴨一派ら10数名が京都に残りました。

(3)旧前川邸入口
京都に残った近藤一派と芹沢一派が屯所としたのが、旧前川邸と八木邸。いずれも新徳禅寺のすぐ近くにあります。旧前川邸は現在所有者が替わり、屋敷の中は拝観できません。
(4)旧前川邸入口すぐ
但し屋敷の門を入ったところに土産物屋があり(屋敷の一部?)そこだけは入れます。でも日祝しか開いてないようです。

(5)八木邸入口
旧前川邸のすぐ前にあります。こちらは今も八木家が所有しています。当時の当主は11代目の八木源之丞、現在の当主は15代目で和菓子会社の社長さん。写真の門の右手前に土産物屋兼休憩所があり、そこでは八木さんの会社の和菓子や新選組オリジナルグッズが売られていました。
ガイドさんの解説(約30分)、帰り際には抹茶と和菓子が付いて、入館料はしめて1000円。
詳細は八木邸のサイトをご覧下さい。
ちなみに去年(2004年)は大河ドラマのおかげで、入館までに30分待ち、40分待ちはザラだったそうです。今年のGWも観光客はたくさん訪れているとのこと。私たちは正午頃に訪れたのですが、15分ほど待ちました。
(6)八木邸の本玄関から芹沢暗殺現場を臨む
こちらは母屋で、芹沢一派はここに住みました。近藤らは離れ(現在土産物屋がある場所)に住んだそうです。前川家の人たちは家を明け渡して別のところに移りましたが、八木源之丞は肝がすわった人で、八木家の人々は彼らと一緒に住んだのだそう。
写真に電灯が二つ見えますが、二つ目の電灯の下、すなわち奥の部屋で芹沢鴨と平山五郎が近藤一派によって暗殺されました。有名な「芹沢が残した刀傷のある鴨居」はさてどこにあるかと言うと……八木邸サイトのこちらの見取り図で探してみて下さい(^_^;。
この刀傷、長年観光客が触り続けるうちに「丸く」なってきてしまったため、今はビニールがかけられており触ることはできません。ガイドさん曰く「うちはこれしか売り物がないので、大事にしないといけないってことで……(笑)」
新選組はやがて屯所を移すことになり八木邸を去るのですが、その時、土方歳三は八木源之丞に5両(1両=約8万円)包みました。2年以上無料で住ませてもらって食事ももらって5両はないだろう、と源之丞は思ったそうで、「これだけでっか?」と悪びれずに突っ込んだそうです。土方は決まりが悪くてずっとうつむいたままだったということです。
その他、ガイドさんは新選組のいろんな話をしてくれました。ディープなファンにとっては特に目新しい話でもないんでしょうが……。
しかし現代の住宅と違って鴨居が低いのには驚きました。長身の人は要注意。

(7)光縁寺(こうえんじ)にある山南敬助の墓
新選組副長・山南敬助の墓。山南の紹介で、屯所で切腹した隊士達、三人目には山南自身が、その後多くの隊士達がここの住職に弔われ埋葬されました(その後改葬された者も含む)。
(8)光縁寺(こうえんじ)にある新選組隊士の墓
「壬生心中」で有名な松原忠司の名前もあります。
光縁寺は大宮駅から徒歩3分のところにあります。

(9)壬生寺(みぶでら)の中にある壬生塚
壬生寺は一番最初に紹介した新徳禅寺のすぐ前にあります。
壬生寺の中に壬生塚はあります。
(10)壬生塚にある近藤勇像
像の左隣には近藤の遺髪塔があります。右隣には絵馬がありファンのメッセージが。

(11)壬生塚にある河合耆三郎の墓
横領の汚名を着せられ切腹した会計係の河合耆三郎。10日間の猶予をもらい実家に飛脚を飛ばして送金を頼んだのですが、不幸にも家人が留守でお金は届きませんでした。
大河ドラマでは武田観柳斎が悪者になっていましたが、本当のところは近藤が深雪太夫を身請けするために50両抜かれたことがきっかけだとか。誰が金庫から抜いたかは明らかではありませんが。
(12)壬生塚にある芹沢鴨・平山五郎の墓
芹沢さんは意外と人気があります。たくさんの観光客が墓に手を合わせていました。

(13)壬生塚にある隊士らの墓
池田屋騒動で亡くなった隊士らの合祀墓もあります。あなたは何人の名前を知っていますか?全部知ってたらかなりの新選組通。
(14)西本願寺(にしほんがんじ)の太鼓楼
壬生を出た後、次の屯所になったのがここです。壬生周辺から徒歩約20分。壬生時代もけっこうやりたい放題だった新選組ですが、第二屯所ではさらにやりたい放題。西本願寺に全資金を出させて2年後に第三屯所となる不動村屯所に移ったそう。

(15)興正寺(こうしょうじ)
西本願寺の南隣にあります。新選組はここでも金の無心をして、200両をまんまと借り受けたそう。
(16)「伊東甲子太郎遭難之地」の碑
油小路の変が起きた場所は実にひっそりとしていました。気づかずに通り過ぎる人も多いのではないでしょうか。
新選組から分裂した「高台寺党」のリーダー・伊東甲子太郎。彼が新選組により暗殺された場所にこの碑はあります。本光寺という小さな寺の前です。
本光寺の斜め前、小さな交差点の角に床屋さんがありますが、その付近でいきなり槍で突かれた伊東は、本光寺の前で絶命したそうです。
(気が付くと床屋のご主人が私たちのそばに来ておられて、色々と説明してくれました。お店が暇だったのかな(^_^;)
ここから数十メートル北上すると七条通に出るのですが、その交差点付近で、伊東の遺体を引きあげに来た「高台寺党」のメンバーのうち、藤堂平助ら3名が新選組によって斬殺されました。
藤堂平助は試衛館時代からの近藤の仲間でしたが、後に「高台寺党」に参加していました。永倉新八は藤堂を何とか逃がそうとしましたが、事情を知らない新入隊士が藤堂を斬ってしまったそうです。

(17)京都御所の蛤御門
会津藩・薩摩藩(幕府軍)と、長州藩急進派が朝廷の取り合いをした事件、これが元治元年(1864年)7月19日に勃発した蛤御門の変(禁門の変)。門には長州軍の砲弾の跡が今でも残っています。長州藩はリーダー格の来島又兵衛が戦死、久坂玄瑞は自刃して総崩れに。新選組も長州軍の敗走兵を追い、真木和泉らを切腹に追い込みました。
(18)三条大橋
江戸からやって来た近藤らが京都に入る時に渡った橋ですが、皮肉にも5年後(1868年)、近藤は処刑されてこの河原に首をさらされることになったのでした。
またここは慶応2年(1866年)9月12日夜、土佐の急進派と斬り合って勝利をおさめた「三条制札事件」の舞台でもあります。

(19)池田屋騒動跡地
新選組の名を一躍轟かせた池田屋事件。有名なので解説は省きます(だんだん書くの疲れてきた(^_^;)。今はパチンコ屋さんになっていて、面影は全く残っていません。三条大橋から三条通を西に数分行った所にあります。
伊東甲子太郎の碑は周囲がひっそりしすぎてて見逃しそうになったのですが、こちらは逆に周囲が賑やかすぎて見逃しそうになりました。
(20)近江屋跡地
坂本竜馬・中岡慎太郎が暗殺された近江屋の跡地。こちらも有名なので解説は省きます。
この碑も周囲が賑やかすぎて危うく見逃すところでした。人通りが非常に激しいため、人通りが途絶えた一瞬を狙って写真を撮りました(^_^;

参考文献:「新選組!をめぐる京都の旅」レブン著・メイツ出版

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